御仮屋門
★御仮屋門(現 出水小学校正門)
現在の出水小学校は、御仮屋があったところです。江戸時代の出水は島津の直轄領であったため、島津家から派遣された地頭が統治していました。御仮屋は地頭の役所(現在の市役所)でしたが、参勤交代の時、藩主はここに宿泊しました。現在は門のみ残っていて小学校の正門として使われています。島津斉彬や歴代の藩主はここに一泊し江戸に向かいました。この御仮屋門は島津義弘が、いずれ肥後との国境の出水に住むつもりで帖佐の屋敷の門を移築したものと言われていますが、結局出水に住むことはありませんでした。
島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名です。後に剃髪して惟新斎と号したため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれました。戦国大名の島津氏の第16代当主島津義久の弟で、島津4兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の一人として名を馳せ武勇の誉れ高く、伊藤氏との木崎原の戦いでは伊東義祐が3,000の大軍を率いて攻めてきたのに対して300の寡兵で奇襲しこれを打ち破るなど勇猛ぶりを発揮しました。耳川の戦いでは豊後国から遠征してきた大友氏を破り、肥後国の守護代として八代に入って阿蘇氏を攻めて降伏させるなど、兄に代わって島津軍の総大将として指揮を執り武功を挙げました。そして島津家は豊後の国を除きほぼ九州全土を支配するまでになりました。天正14年(1586年)には豊後の大友領に侵攻しましたが、志賀親次など大友方の城主の抵抗に合い、思うように進みませんでした。天正15年(1587年)、大友氏の援軍要請を受けた豊臣秀吉の九州平定軍と日向根白坂の戦いで義弘は自ら抜刀して敵軍に斬り込むほどの奮戦ぶりを示しましたが、島津軍は兵力で豊臣軍に及ばず結局敗北してしまいます。その後の5月8日(6月13日)に義久は降伏し、島津家の領地は本領、薩摩、大隅、日向に戻されます。その後は豊臣家に従うこととなり、朝鮮の役に参戦し武功を上げます。秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは、西軍で参戦しましたが西軍は負け、敵中に取り残された薩軍は苦肉の策で敵中突破して敗走し薩摩に帰ってきましたが、生き残ったのは80人ほどだったということです。このことは島津の退き口(のきぐち)として全国に名を轟かせました。義弘は戦国時代の屈指の武将とし当時でも有名で「鬼島津」と呼ばれていました。義久のあと第17代島津家当主となります。晩年は大隅の加治木に隠居し、若者たちの教育に力を注ぎ、元和5年7月21日(1619年8月30日)に同地で死去しました。享年85(満83歳没)でした。このとき、義弘の後を追って13名の家臣が殉死しています。